2009年に大阪市此花区のパチンコ店で起きた放火殺人事件で、死刑が確定していた高見素直死刑囚。
2026年8月21日に死刑が執行され、事件から約17年を経て再び注目されています。
高見素直死刑囚はどのような生い立ちを送り、事件に至ったのでしょうか。経歴や妻・子供などの家族構成、死刑執行までの経緯をまとめます。
高見素直死刑囚の生い立ちや経歴は?
高見素直死刑囚は1968年生まれで、広島県で少年時代を過ごし、高校卒業後は自動車販売や運送関係の仕事を経験していました。
- 名前:高見素直(たかみ すなお)
- 生年:1968年
- 事件当時の年齢:41歳
- 死刑執行時の年齢:58歳
- 生育地:広島県
- 学歴:広島県三原市の工業高校を卒業したとされる
- 職歴:自動車販売会社、溶接工、ダンプカー運転手、長距離トラック運転手、タクシー運転手、タンクローリー運転手など
- 家族:元妻、子供2人、両親、姉妹
- 事件当時:無職
一つの職場で長く働き続けてきたという経歴ではなく、広島、福岡、鹿児島、大阪などに生活の拠点を移しながら、さまざまな仕事を経験していたことが分かっています。
幼少期は広島市安佐北区で過ごす
当時の報道によると、高見死刑囚の一家は1972年ごろ、広島市安佐北区の住宅地へ転居しました。
高見死刑囚は地元の市立小学校に入学し、その後、姉が東広島市内の県立高校へ進学したことに伴って家族で東広島市へ引っ越したとされています。
高見死刑囚自身は東広島市立の中学校へ通い、その後は広島県三原市にある工業高校へ進学しました。
具体的な小学校や中学校、高校の学校名については、公表されている情報では確認できていません。
事件当時、両親は広島市安佐北区で生活していたことも報じられており、高見死刑囚にとって広島は長く家族とのつながりがあった土地だったようです。
高校卒業後は自動車販売会社の営業職に
高校を卒業した高見死刑囚が最初に勤務したとされるのが、広島市西区にあった自動車販売会社です。
担当していたのは営業職でした。
当時の元上司は高見死刑囚について、温厚な一方で人付き合いはあまり得意ではなかったという趣旨の人物像を語っています。
相手から話しかけられれば笑顔で応じるものの、自分から積極的に客へ話しかけることは少なかったとも伝えられました。
しかし、無断欠勤をすることもあり、自動車販売会社は約1年で退職。
その後は広島市安佐北区の運送会社でトラック運転手として働きましたが、給料の遅配などもあり、こちらも2年足らずで退職したとされています。
高見素直死刑囚は福岡で結婚して2児の父親に
高見死刑囚はその後、福岡県へ移り住み、この時期に結婚して家庭を持っています。
裁判資料によると、福岡県に移った後は溶接工として約1年間勤務。
続いてダンプカー運転手として約4年9カ月働きました。
そして、この期間に結婚し、妻との間に2人の子供をもうけています。
仕事を転々としていた時期が長い高見死刑囚ですが、福岡でダンプカー運転手をしていたころは、比較的長期間同じ仕事を続けながら家庭生活を送っていたことになります。
妻の言葉をきっかけに長距離トラック運転手へ
1998年ごろ、高見死刑囚は長距離トラック運転手へ転職しました。
裁判資料では、妻から収入を増やしてほしいという趣旨の話をされたことが転職のきっかけだったとされています。
当時の勤務は、2泊3日の行程を1週間に2~3回こなすという厳しいものでした。
家族を支えるために収入を増やそうとしていた様子もうかがえますが、このころから後の裁判でも大きく取り上げられる精神的な症状が現れるようになります。
高見素直死刑囚には覚醒剤事件の過去も
高見死刑囚の人生をたどるうえで、1990年代初めの覚醒剤事件も大きな出来事となっています。
裁判資料によると、高見死刑囚は1991年ごろから覚醒剤を使用し始め、半年ほど使用した後に覚醒剤取締法違反で逮捕されました。
1992年1月には懲役1年2カ月、執行猶予3年、保護観察付きの判決を受けています。
裁判所は、その後は覚醒剤を使用していなかったと認定しています。
一方、逮捕後には「人に見られている」「笑われている」と感じたり、暴力団に追われていると感じたりするようになったとされています。
1992年2月から4月まで精神科病院に入院し、当時は覚醒剤精神病と診断され治療を受けました。
後の放火殺人事件の裁判では、犯行時の精神疾患について複数の精神鑑定で診断や評価が分かれており、刑事責任能力が大きな争点となっています。
「みひ」という女性の声を聞くようになった経緯
高見死刑囚は長距離トラック運転手になった1998年ごろ、「みひ」と名乗る女性の声を聞いたと裁判で説明しています。
長距離トラック運転手になって1~2カ月ほど経ったころ、高速道路を運転中に突然女性の声が聞こえたとされています。
高見死刑囚は、その声の主が「みひ」と名乗り、「マーク」という集団に所属していると思うようになりました。
はっきりした声が聞こえたのは当初10日ほどだったとされていますが、その後、高見死刑囚は体調不良や車の故障、自身に起こる不都合な出来事などを「みひ」らによる嫌がらせだと思い込むようになっていきました。
こうした考えが後の事件の動機形成にも一定の影響を与えたことは裁判所も認めています。
ただし、裁判所は精神疾患の影響によって自ら判断したり行動したりする能力が失われていたとは認めず、完全責任能力があったと判断しました。
高見素直死刑囚の妻・子供など家族構成は?
高見素直死刑囚には元妻との間に2人の子供がおり、両親や姉妹の存在も裁判資料などから確認できます。
- 父親:事件当時、広島市安佐北区で生活していたと報じられている
- 母親:事件当時、父親とともに広島市安佐北区で生活していたと報じられている
- 姉妹:姉がいたことが当時の報道で確認されている
- 元妻:福岡県で生活していた時期に結婚、その後離婚
- 子供:元妻との間に2人
家族の氏名や顔画像、職業などについては明らかになっていません。
2001年7月に妻と離婚
高見死刑囚の家庭生活に大きな変化が起きたのが2001年です。
2001年5月、高速道路のサービスエリアで他人の乗用車をドライバーで傷つける器物損壊事件を起こしました。
この事件で罰金5万円の略式命令を受け、勤務先も解雇されています。
そして同年7月、妻と離婚しました。
裁判資料では、子供たちは幼いころから元妻に引き取られ、その後、高見死刑囚と子供たちとの関係は疎遠になっていたことも記されています。
元妻や子供は今回の事件とは無関係であり、名前や現在の生活についても公表されていません。
離婚後は仕事を転々として大阪へ
離婚後も高見死刑囚は、運転関係を中心にさまざまな仕事を経験しています。
裁判資料によると、器物損壊事件による解雇後はフォークリフト運転やタクシー運転手として勤務。
その後も計6社でタンクローリー運転手などとして働きました。
ただ、本人の都合だけで職場を変えていたわけではありません。
勤務していた部門が廃止された会社や、会社が事実上倒産したケースもあり、鹿児島県でダンプカー運転手をしていた際には半年ほどで仕事自体が減ったとされています。
2007年ごろには「一年中仕事がある都会で働きたい」と考え、鹿児島県から大阪へ移りました。
大阪ではタンクローリー運転手などとして働き、周囲から真面目な仕事ぶりを評価されていた時期もあったと伝えられています。
しかし、勤務先では給料の遅配などがあり、2009年4月末に退職しました。
高見素直死刑囚が事件を起こすまでに何があった?
2009年4月に仕事を辞めた高見死刑囚は、その後も求職活動を続けていました。
しかし、新しい仕事は見つかりませんでした。
裁判所の判決では、高見死刑囚は同年6月末ごろになると、再就職できないことも「みひ」らの嫌がらせだと思うようになり、以前から考えていた無差別殺人を具体的に検討するようになったとされています。
一方で、仕事が見つかれば事件を起こさないとも考えていました。
友人に仕事の紹介を頼み、事件当日まで連絡を待っていたことも裁判で明らかになっています。
しかし仕事を紹介する連絡はなく、2009年7月5日午後2時ごろ、犯行を最終的に決意しました。
大阪此花区パチンコ店放火殺人事件の経緯
事件が起きたのは2009年7月5日午後4時14分ごろです。
場所は大阪市此花区四貫島にあったパチンコ店「crossニコニコ」でした。
高見死刑囚は犯行を決意した後、ホームセンターでガソリン携行缶やバケツ、マッチなどを購入。
さらにガソリンスタンドを探し、3軒目でガソリン10リットルを購入しました。
その後、ガソリンをバケツへ移して営業中のパチンコ店へ入り、店内の床にガソリンをまいてマッチで火をつけました。
火は急速に広がり、店内にいた客や従業員のうち5人が死亡。
刑事裁判では、さらに10人に重軽傷を負わせた殺人未遂についても審理されています。
何の関係もない人たちを狙った無差別殺人であり、日曜日の営業中の店舗が狙われたことも社会に大きな衝撃を与えました。
犯行後は大阪を離れて岩国警察署へ出頭
高見死刑囚は放火後、現場から離れ、いったん自宅へ戻りました。
その後、大阪を離れて西へ向かっています。
裁判では、防犯カメラに映っていることからいずれ逮捕されると考えていた一方、気持ちを整理する時間がほしかったという趣旨の説明をしています。
翌2009年7月6日、山口県岩国市の岩国警察署へ出頭しました。
その後、殺人や殺人未遂、現住建造物等放火などの罪に問われることになります。
裁判では精神状態と責任能力が争点に
高見死刑囚の裁判では、起訴された事件そのものに加え、犯行時にどの程度の刑事責任能力があったのかが大きな争点となりました。
精神鑑定では、高見死刑囚の精神疾患について「覚醒剤精神病」とする見解と「軽度の統合失調症妄想型」とする見解が示され、評価が分かれました。
弁護側は「みひ」などに関する妄想が犯行に強く影響していたとして、責任能力が低下していたと主張しました。
一方、裁判所は精神疾患が犯行の動機形成に影響していたこと自体は否定しませんでした。
その上で、仕事が見つかれば犯行を思いとどまろうとしていたこと、多くの人を殺害する方法や日時を自ら選んだこと、犯行に必要な道具を準備したこと、現場の状況を確認しながら行動していたことなどを重視。
自らの意思で判断して犯行を回避することも可能だったとして、完全責任能力を認めました。
高見素直死刑囚に死刑判決が言い渡される
2011年10月31日、大阪地裁は高見死刑囚に死刑判決を言い渡しました。
5人の命を奪い、10人に重軽傷を負わせた結果の重大性に加え、多くの客がいる営業中のパチンコ店にガソリンをまいて放火した無差別性や計画性などが重く判断されています。
高見死刑囚側は控訴しました。
しかし2013年7月31日、大阪高裁は一審の判断を支持して控訴を棄却。
さらに最高裁へ上告しましたが、2016年2月23日に最高裁第三小法廷が上告を棄却し、死刑が確定しました。
- 2009年7月5日:大阪市此花区のパチンコ店に放火
- 2009年7月6日:山口県の岩国警察署へ出頭
- 2011年10月31日:大阪地裁が死刑判決
- 2013年7月31日:大阪高裁が控訴棄却
- 2016年2月23日:最高裁が上告棄却
- 2016年:死刑確定
- 2026年8月21日:死刑執行
高見素直死刑囚の死刑が2026年8月21日に執行
死刑確定から約10年後となる2026年8月21日、高見素直死刑囚の死刑が執行されました。
執行時の年齢は58歳でした。
法務省による死刑執行は2025年6月以来、約1年2カ月ぶりで、高市内閣では初めてとなります。
平口洋法務大臣は、関係記録などを踏まえて慎重に検討した上で死刑執行を命令したと説明しています。
事件が起きた2009年7月から約17年。
高見死刑囚が41歳だった事件当時から長い年月が経過し、58歳で刑が執行されることとなりました。
まとめ
今回は、高見素直死刑囚の生い立ちや経歴、妻・子供など家族構成と死刑執行までの経緯についてまとめました。
高見死刑囚は広島県で少年時代を過ごし、三原市の工業高校を卒業した後、自動車販売会社や運送会社などで働きました。
その後、福岡県へ移って溶接工やダンプカー運転手として働き、この時期に結婚して2人の子供をもうけています。
しかし2001年には器物損壊事件を起こして勤務先を解雇され、同年7月に離婚。その後もフォークリフトやタクシー、タンクローリーなど運転関係の仕事を中心に転職を重ね、2007年ごろ大阪へ移りました。
2009年4月に仕事を辞めた後は再就職できない状態が続き、同年7月5日に大阪市此花区のパチンコ店へ放火。5人が死亡し、10人が重軽傷を負いました。
裁判では精神状態や刑事責任能力が争われましたが、完全責任能力が認められ、2016年に死刑が確定。
そして2026年8月21日、事件から約17年を経て58歳で死刑が執行されました。
刑が執行されたことで高見死刑囚の人生には一つの区切りがつきましたが、突然命を奪われた被害者や遺族が受けた被害の重さは、年月が経っても変わるものではありません。


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