「北の国から」をはじめ、長い年月にわたって家族や人間の生き方を描いてきた脚本家・倉本聰さん。
2026年9月28日、91歳で亡くなっていたことが発表されました。
作品の中で何度も家族を描いてきた倉本さん自身は、どんな家族に囲まれ、どんな人生を歩んできたのでしょうか。
妻や娘、経歴・学歴、代表作、死因まで振り返ります。
倉本聰の妻・子供・孫など家族構成は?
倉本聰さんの作品を振り返ると、いつもそこには家族があります。
うまく言葉にできない父と子、離れていても切れない親子の縁、近いからこそぶつかってしまう夫婦。
そんな家族を描き続けた倉本さん自身にも、長年人生をともにした妻と娘がいました。
- 本人:倉本聰さん
- 妻:平木久子さん
- 子供:娘の由美さん
- 孫:詳しい情報は公表されていない
倉本さん自身は、父・山谷太郎さんと母・綾子さんのもと、三男二女の5人きょうだいの次男として生まれています。
妻は女優の平木久子
倉本聰さんの妻は、舞台女優として活動していた平木久子さんです。
2人が出会ったのは、倉本さんが東京大学に通っていた頃。
劇団「仲間」で倉本さんは文芸部に所属し、脚本を書く日々を送っていました。同じ頃、平木さんも劇団の世界へ入っています。
演劇を通して出会った2人はやがて結婚。倉本さんが27歳の頃でした。
その後、倉本さんの人生を大きく変える出来事が起こります。
1977年、東京を離れて北海道・富良野へ。
今では倉本聰さんと富良野は切り離せないほど強く結びついていますが、当時は人生そのものを変える大きな決断でした。
平木さんはしばらく東京で舞台女優として活動を続け、その後は富良野で倉本さんと暮らすようになります。
都会から遠く離れた土地で始まった新しい生活。そのそばにいたのが、妻の平木久子さんでした。
「北の国から」をはじめ、富良野で多くの物語が生まれていった背景には、家族と過ごした日常もあったのではないかと感じさせられます。
子供は娘の由美
倉本聰さんには、娘の由美さんがいます。
父と同じ脚本の道ではなく、由美さんが手掛けてきたのはイラストです。
富良野市で作られている「ふらのワイン」の「羆(ひぐま)の晩酌」では、ラベルイラストを担当しました。
父は富良野で物語を書き、娘は富良野の商品に絵を残す。
表現するものは違っていても、親子それぞれの作品が同じ土地に残っているのは印象的です。
一部では由美さんを「養女」とする情報も見られますが、その詳しい経緯について公的な資料では明らかになっていません。
孫については?
倉本聰さんについては「孫がいるのか」と気になって検索する人も少なくありません。
ただ、倉本さん本人の孫について、名前や人数など具体的な情報は公表されていません。
娘・由美さんの家庭についても、表に出ている情報はごくわずか。
日本を代表する脚本家として長く注目された倉本さんですが、家族の私生活まで積極的に表へ出すことはありませんでした。
倉本聰のプロフィール
ここからは、倉本聰さんが脚本家として歩んだ91年の人生をたどります。
- 名前:倉本聰(くらもと そう)
- 本名:山谷馨(やまや かおる)
- 生年月日:1934年12月31日
- 戸籍上の生年月日:1935年1月1日
- 出身:東京都
- 職業:脚本家・劇作家・演出家
- 最終学歴:東京大学文学部美学科
- 死去:2026年9月18日
- 享年:91歳
本名は山谷馨さん。
実際に生まれたのは1934年12月31日ですが、戸籍上では1935年1月1日生まれとなっています。
後に「倉本聰」という名前で世に出て、日本のドラマ史に残る数々の作品を書くことになります。
倉本聰の学歴
倉本聰さんと脚本の世界との出会いは、社会人になってから始まったものではありません。
- 豊島師範附属小学校
- 麻布中学校
- 麻布高等学校
- 東京大学文学部美学科
麻布中学校・高校を卒業した後、2浪を経て1955年に東京大学文学部へ進学。
大学では俳優座スタジオ劇団や劇団「仲間」に参加し、演劇の世界へ深く入り込んでいきます。
舞台に立つ側ではなく、物語を書く側へ。
1958年にはラジオドラマ「邑の火」で脚本家デビューを果たしました。
まだ大学生だった頃から、すでに倉本聰さんの脚本家人生は始まっていたのです。
倉本聰の経歴
大学を卒業した倉本聰さんは、そのまま放送の世界へ飛び込みました。
1959年、東京大学文学部美学科を卒業してニッポン放送に入社。
ラジオドラマの制作や演出を担当する一方、テレビドラマの脚本も書き始めます。
そして1963年、ニッポン放送を退社。
ここから脚本家として本格的に一本で生きていく道が始まりました。
「前略おふくろ様」などの作品で脚本家として評価を高めていきますが、そのまま東京で仕事を続ける道は選びませんでした。
1977年、42歳で北海道・富良野へ移住。
便利な東京を離れ、冬になれば厳しい寒さに包まれる土地へ生活の拠点を移します。
そこで目にした自然や、人々の暮らし、都会とは違う時間の流れ。
それらが後の倉本作品に色濃く入り込んでいきました。
そして1981年、「北の国から」がスタートします。
倉本さん自身が選んだ富良野という土地から、日本中の人の記憶に残る物語が生まれました。
1984年には「富良野塾」を開設。
自分一人が作品を書くのではなく、これから脚本家や俳優を目指す若者を育てることにも力を注ぎます。
年齢を重ねても、書くことから離れることはありませんでした。
2024年には、長年構想を温め続けてきた映画「海の沈黙」が公開。
90歳を迎えてもなお新しい作品を世に送り出す。その姿は、生涯を通して脚本家であり続けた倉本さんそのものでした。
倉本聰の北の国からなど代表作
倉本聰さんが60年以上の脚本家人生で残した作品は、一つや二つではありません。
- 北の国から
- 前略おふくろ様
- 昨日、悲別で
- ライスカレー
- 優しい時間
- 風のガーデン
- やすらぎの郷
- やすらぎの刻~道
- 映画「駅 STATION」
- 映画「海の沈黙」
時代が変わっても、作品の中心にいたのは人間でした。
親子、夫婦、老い、別れ、孤独。
誰にでも訪れる出来事を、きれいごとだけでは終わらせず、人間の弱さも含めて描いてきたのが倉本作品です。
代表作「北の国から」
その中でも、多くの人が真っ先に思い浮かべる作品が「北の国から」ではないでしょうか。
1981年に連続ドラマとして始まり、北海道・富良野を舞台に、黒板五郎と子供たちの純、螢を中心とした家族の物語が描かれました。
都会から富良野へ移り住んだ父と子供たち。
決して器用ではない父親と、成長するにつれて父との距離が変わっていく子供たちの姿は、多くの視聴者の心をつかみました。
親だから何でも分かるわけではない。
子供だからいつまでも親のそばにいるわけでもない。
それでも家族であることは変わらない。
そんな関係を20年以上かけて描いたことが、「北の国から」という作品の大きな魅力です。
連続ドラマ終了後もスペシャルドラマとして物語は続き、2002年まで登場人物たちの人生が描かれました。
「優しい時間」「風のガーデン」と合わせて「富良野3部作」とも呼ばれています。
倉本聰の死因
長い脚本家人生を歩んできた倉本聰さん。その訃報が伝えられたのは2026年9月28日でした。
亡くなったのは、その10日前となる9月18日の夕方。
91歳でした。
死因として発表されたのは多臓器不全。
自宅で息を引き取り、多臓器不全に至った具体的な病気については公表されていません。
葬儀は家族の意向によって、近親者のみで執り行われています。
晩年まで倉本さんは創作の現場から離れませんでした。
「北の国から」で家族を描き、「やすらぎの郷」では老いと向き合い、90歳を超えてもなお新しい作品を書く。
時代が変わるたび、その時代を生きる人間を見つめ続けた91年間でした。
倉本聰さん自身の人生は終わっても、富良野の風景や黒板五郎の言葉、登場人物たちの姿は作品の中に残り続けます。
まとめ
今回は、倉本聰さんの妻・子供・孫など家族構成から、娘や経歴・学歴、代表作、死因まで振り返りました。
妻・平木久子さんとは若い頃に演劇を通して出会い、娘の由美さんはイラストの世界で活動。倉本さんが人生の拠点とした富良野には、娘の作品も残されています。
東京大学在学中に脚本を書き始めてから60年以上。「北の国から」をはじめ、人と家族を見つめ続けた物語を数多く世に送り出しました。
2026年9月18日、多臓器不全のため91歳で死去。
倉本聰さんが描いた人間の弱さや家族のつながりは、これからも作品を通して語り継がれていくことになります。


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