大阪市此花区のパチンコ店で5人が死亡した放火殺人事件で、死刑が確定していた高見素直死刑囚。
2026年8月21日に死刑が執行され、どのような家庭で育ち、どんな人生を歩んできた人物だったのかにも関心が集まっています。
高見素直死刑囚の家庭環境や生い立ち、妻・子供などの家族構成、経歴から死刑執行までをまとめます。
高見素直死刑囚の家庭環境や生い立ちは?
高見素直死刑囚は1968年生まれで、幼少期から広島県内で育ち、両親や姉とともに生活していたことが分かっています。
確認されているプロフィールをまとめると、
- 名前:高見素直(たかみ すなお)
- 生年:1968年
- 事件当時:41歳
- 死刑執行時:58歳
- 生育地:広島県
- 学歴:広島県三原市の工業高校を卒業したとされる
- 家族:両親、姉、元妻、子供2人
- 主な職歴:自動車販売会社、溶接工、トラック運転手、タクシー運転手、タンクローリー運転手など
- 事件当時:無職
事件につながるほど特殊な家庭環境で育ったことを示す公表情報は確認されていません。
一方で、少年時代から成人後までに何度か住む場所を変え、その後も仕事や家庭環境が大きく変化していったことが分かっています。
幼少期に家族で広島市安佐北区へ
当時の報道によると、高見死刑囚の一家は1972年ごろ、広島市安佐北区へ転居しました。
高見死刑囚は地元の市立小学校へ通い、幼少期を広島市内で過ごしています。
その後、姉が高校へ進学するタイミングで一家は東広島市へ引っ越しました。
高見死刑囚も東広島市内の中学校へ進学しています。
家族全体で姉の進学に合わせて住む場所を変えていることから、このころまでは両親や姉と同じ家庭で生活していたことが分かります。
三原市の工業高校へ進学
中学校を卒業した高見死刑囚は、広島県三原市にある工業高校へ進学したとされています。
具体的な学校名については公表情報では確認できていません。
高校卒業後は大学などへ進むのではなく、そのまま就職しています。
このころから自動車や運転に関わる仕事との接点が生まれていきました。
高校卒業後の経歴は?
高見死刑囚は高校卒業後、自動車販売会社への就職を皮切りに、運送業を中心とした仕事を経験しています。
最初の仕事は自動車販売会社の営業
高校を卒業した高見死刑囚は、広島市西区にある自動車販売会社へ就職しました。
担当していたのは営業の仕事だったとされています。
当時を知る関係者からは、温厚な印象がある一方、自分から積極的に人へ話しかけることはあまり得意ではなかったという趣旨の証言も伝えられました。
営業職という仕事との相性にも苦労していたようで、無断欠勤することもあり、約1年で退職しています。
その後は広島市安佐北区の運送会社へ転職し、トラック運転手として働きました。
しかし、この会社では給与の遅配などもあり、2年足らずで退職したとされています。
高見素直死刑囚には覚醒剤事件の過去も
高見死刑囚は20代のころ、覚醒剤取締法違反で逮捕されています。
1991年ごろから覚醒剤を使用し始め、約半年後に逮捕されました。
1992年1月には、懲役1年2カ月、執行猶予3年、保護観察付きの判決を受けています。
その後は覚醒剤を使用していなかったと裁判では認定されました。
一方、このころから精神面にも変化が現れています。
「誰かに見られている」「笑われている」と感じるようになり、暴力団に追われていると思い込むこともあったとされています。
1992年2月から4月ごろには精神科病院へ入院し、当時は覚醒剤精神病と診断されました。
後に起きた放火殺人事件の裁判でも、この精神状態が犯行にどこまで影響したのかが大きく争われることになります。
福岡へ移住して結婚
その後、高見死刑囚は福岡県へ移り住み、仕事をしながら家庭を築いています。
福岡では溶接工として約1年間勤務した後、ダンプカー運転手へ転職。
ダンプカー運転手としては約4年9カ月働いていました。
この時期に結婚し、妻との間に2人の子供が誕生しています。
転職を繰り返していた高見死刑囚の経歴の中では、家庭を持ち、比較的長く同じ仕事を続けていた時期でした。
妻の言葉をきっかけに長距離トラック運転手へ
1998年ごろ、高見死刑囚はダンプカー運転手から長距離トラック運転手へ転職しました。
裁判資料では、妻から収入を増やしてほしいという趣旨の話をされたことがきっかけだったとされています。
長距離トラックの仕事では、2泊3日ほどの運行を1週間に複数回こなしていました。
当時は妻と2人の子供を持つ父親でもあり、収入を増やして家庭を支えようとしていた様子もうかがえます。
高見素直死刑囚の妻・子供など家族構成は?
高見素直死刑囚には元妻との間に2人の子供がいました。
家族について確認できているのは、
- 父親:事件当時、広島市安佐北区で生活していたとされる
- 母親:事件当時、広島市安佐北区で生活していたとされる
- 姉:高校進学を機に一家が東広島市へ転居
- 元妻:福岡で生活していた時期に結婚
- 子供:元妻との間に2人
という範囲です。
両親や姉、元妻、2人の子供について、名前や顔画像、現在の生活などは明らかになっていません。
妻とは2001年に離婚
高見死刑囚は2001年7月、妻と離婚しました。
その少し前となる2001年5月には、高速道路のサービスエリアで他人の乗用車をドライバーで傷つける器物損壊事件を起こしています。
この件で罰金5万円の略式命令を受け、勤務先も解雇されました。
そして同年7月に離婚。
2人の子供は元妻に引き取られ、その後、高見死刑囚と子供たちとの関係は次第に疎遠になったとされています。
大阪で働いていたころにも、職場の同僚へ別れた妻と2人の子供がいることを話していたと伝えられました。
元妻や子供は事件とは無関係であり、その後の暮らしについても公表されていません。
離婚後の経歴は?
妻との離婚後、高見死刑囚は運転関係を中心に複数の仕事を経験しています。
フォークリフトの運転やタクシー運転手として働いたほか、その後は複数の会社でタンクローリーなどの運転手を務めました。
職を変えた理由についても、高見死刑囚本人の問題だけではありませんでした。
勤務していた部門が廃止された会社や、会社そのものが事実上倒産したケースもあったとされています。
鹿児島県でダンプカー運転手をしていた時期には、半年ほどで仕事が減少。
高見死刑囚は年間を通して仕事のある都市部で働こうと考えるようになります。
2007年ごろ大阪へ移住
2007年ごろ、高見死刑囚は鹿児島県から大阪へ移りました。
大阪でもタンクローリーなどの運転手として勤務しています。
当時の職場関係者からは、仕事には真面目に取り組んでいたという趣旨の証言も出ていました。
しかし勤務先では給与の遅配などがあり、2009年4月末に退職しました。
このころには元妻や子供とも離れ、大阪で一人暮らしをしていました。
高見素直死刑囚が「みひ」の声を聞くようになったのはいつ?
高見死刑囚は1998年ごろ、長距離トラック運転手として働いていた際に女性の声を聞くようになったと説明しています。
本人は、その声の主が「みひ」と名乗ったと話していました。
さらに「みひ」が「マーク」と呼ばれる集団に所属していると思うようになります。
はっきりと声を聞いていた期間自体は長くなかったとされています。
しかしその後、車の故障や体調不良、仕事上の問題など、自分の身に起きた不都合な出来事を「みひ」や「マーク」による嫌がらせだと考えるようになりました。
事件の裁判では、こうした妄想が犯行の動機形成に一定の影響を与えていたことも認められています。
事件直前の生活は?
高見死刑囚は2009年4月末に仕事を辞めた後、再就職先を探していました。
しかし新しい仕事はなかなか決まりませんでした。
事件当時には借金も抱え、生活面でも追い込まれていたとされています。
裁判では、2009年6月末ごろから再就職できないことについても「みひ」らによる嫌がらせだと考えるようになり、以前から頭にあった無差別殺人を具体的に考えるようになったとされました。
一方で、高見死刑囚は知人に仕事の紹介も依頼していました。
仕事が決まれば犯行をやめようとも考えており、事件当日まで連絡を待っていたとされています。
しかし連絡はなく、2009年7月5日午後2時ごろ、犯行を実行することを決めました。
大阪のパチンコ店放火事件の経緯
2009年7月5日午後4時14分ごろ、大阪市此花区四貫島にあったパチンコ店「crossニコニコ」で事件が発生しました。
高見死刑囚は犯行前、ホームセンターでガソリン携行缶やバケツ、マッチなどを購入。
その後、ガソリンスタンドでガソリン約10リットルを購入しました。
高見死刑囚はガソリンをバケツへ移して営業中の店内へ入り、床にまいた後、火をつけました。
店内には多くの客や従業員がいました。
火災によって5人が死亡し、刑事裁判では10人が重軽傷を負ったとして殺人未遂についても罪に問われています。
高見死刑囚と面識のない人たちが次々と巻き込まれる無差別事件となりました。
事件後は岩国警察署へ出頭
高見死刑囚は放火後、現場から逃走しました。
いったん大阪の自宅へ戻った後、西へ向かっています。
事件翌日の2009年7月6日、山口県岩国市の岩国警察署へ自ら出頭しました。
その後、殺人、殺人未遂、現住建造物等放火などの罪で起訴されています。
裁判では犯行そのものだけでなく、高見死刑囚の精神状態と刑事責任能力についても長く審理されることになりました。
なぜ死刑判決となった?
高見死刑囚の裁判では、精神疾患が犯行にどこまで影響したのかが大きな争点となりました。
精神鑑定では、覚醒剤精神病とする見解や統合失調症とする見解などが示されています。
弁護側は「みひ」などに関する妄想の影響が大きく、責任能力が低下していたと主張しました。
裁判所も、精神疾患が動機形成に影響していたこと自体は認めています。
一方、高見死刑囚が仕事が見つかれば犯行を思いとどまろうとしていたことや、犯行方法を自分で考え、必要な道具を準備していたことなどを重視。
自らの行為の善悪を判断し、犯行を思いとどまる能力は保たれていたとして、完全責任能力を認めました。
高見素直死刑囚の死刑確定までの経緯
2011年10月31日、大阪地裁は高見死刑囚に死刑判決を言い渡しました。
5人が死亡し、10人が重軽傷を負った結果の重大性に加え、多くの客がいる店舗へガソリンをまいて放火した犯行の無差別性や危険性などが重く判断されています。
高見死刑囚側は控訴しましたが、2013年7月31日に大阪高裁が控訴を棄却。
最高裁へ上告したものの、2016年2月23日に上告が棄却され、死刑が確定しました。
- 2009年7月5日:大阪市此花区のパチンコ店で放火事件
- 2009年7月6日:岩国警察署へ出頭
- 2011年10月31日:大阪地裁が死刑判決
- 2013年7月31日:大阪高裁が控訴棄却
- 2016年2月23日:最高裁が上告棄却
- 2016年:死刑確定
- 2026年8月21日:死刑執行
高見素直死刑囚の死刑が2026年8月21日に執行
死刑確定から約10年が経過した2026年8月21日、高見素直死刑囚の死刑が執行されました。
死刑執行時の年齢は58歳でした。
国内で死刑が執行されたのは2025年6月以来、約1年2カ月ぶりとなります。
また、高市内閣では初めての死刑執行となりました。
2009年7月の事件発生から約17年。
広島で家族と暮らしていた少年時代から、結婚して2人の子供を持った時期、離婚や転職を経て事件を起こすまで、高見死刑囚の人生は大きく変化していきました。
そして死刑確定から約10年を経た2026年8月21日、刑が執行されています。
まとめ
今回は、高見素直死刑囚の家庭環境や生い立ち、妻・子供などの家族構成、経歴から死刑執行までについてまとめました。
高見死刑囚は幼少期に家族と広島市安佐北区へ移り、その後は姉の進学に合わせて東広島市へ転居。三原市の工業高校を卒業し、自動車販売会社や運送会社などで働いています。
その後、福岡県へ移って結婚し、2人の子供をもうけましたが、2001年には妻と離婚。
離婚後はタクシーやタンクローリーなどの運転手として働き、鹿児島を経て大阪へ移住しました。
2009年4月に仕事を辞めた後、同年7月5日に大阪市此花区のパチンコ店へ放火し、5人が死亡、10人が重軽傷を負う事件を起こしました。
裁判では精神状態も争われましたが完全責任能力が認められ、2016年に死刑が確定。
2026年8月21日、事件から約17年を経て58歳で死刑が執行されました。
死刑執行によって刑事手続きは一つの終わりを迎えましたが、事件で失われた命や遺族が抱えてきた苦しみの重さは変わりません。


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