1972年にイスラエルの空港で起きた銃乱射事件の実行犯で、レバノンに政治亡命していた岡本公三容疑者が78歳で死亡しました。
岡本容疑者はどのような人物で、なぜ日本へ引き渡されないまま半世紀以上を過ごしたのでしょうか。
死因や経歴、テルアビブ空港乱射事件とレバノン亡命の経緯を整理します。
元日本赤軍・岡本公三は何者?
岡本公三容疑者は、1972年のテルアビブ・ロッド空港乱射事件に加わった日本人実行犯3人のうち、唯一生き残った元日本赤軍メンバーです。
事件後にイスラエルで逮捕され、終身刑を言い渡されました。
その後、捕虜交換によって釈放され、最終的にはレバノンから政治亡命を認められています。
プロフィールをまとめると、次のようになります。
- 名前:岡本公三
- 読み方:おかもと・こうぞう
- 生年月日:1947年12月7日
- 死亡日:2026年7月23日
- 享年:78歳
- 出身:熊本県
- 学歴:鹿児島大学に在学
- 所属:共産主義者同盟赤軍派、後の日本赤軍
- 主な事件:テルアビブ・ロッド空港乱射事件
- 亡命先:レバノン
事件当時は鹿児島大学の学生で、赤軍派の思想に共鳴したノンセクトの活動家だったとされています。
国内で活動していた人物ではなく、中東へ渡ってパレスチナ解放人民戦線の訓練を受け、武装闘争に加わった人物でした。
兄はよど号ハイジャック事件の実行犯
岡本容疑者が赤軍派の思想へ傾いていった背景には、兄の存在もあったとされています。
次兄の岡本武は、1970年に発生したよど号ハイジャック事件に加わった赤軍派メンバーの一人でした。
警察白書では、兄がよど号事件を起こした後、岡本容疑者が赤軍派の革命思想に強く共鳴するようになったと整理されています。
その後、岡本容疑者は1972年に中東へ渡り、わずか数カ月後に空港乱射事件を起こしました。
岡本公三の死因は?
岡本公三容疑者の具体的な死因や病名は、現在のところ公表されていません。
岡本容疑者を支援してきたパレスチナ解放人民戦線は、2026年7月23日にレバノンの首都ベイルートで死亡したと発表しました。
岡本容疑者は長く病気を患っていたとされていますが、どのような病気だったのか、直接の死因が何だったのかは明らかになっていません。
関係者によると、23日午後に自宅として使っていたベイルート郊外の潜伏先で、死亡が確認されたということです。
晩年は公の場にほとんど姿を見せなかった
岡本容疑者は政治亡命後、レバノン国内で支援を受けながら生活していました。
しかし、健康状態に問題を抱えていたとされ、公の場に姿を現す機会はほとんどありませんでした。
2022年5月には、空港乱射事件から50年となる集会に参加。
支援者に付き添われながら、事件で死亡した仲間を追悼する墓地を訪れています。
これが晩年の数少ない公の姿となりました。
岡本公三の経歴を時系列で紹介
岡本公三容疑者の経歴を時系列で見ると、一人の大学生が国際的な武装組織へ加わり、長期間の亡命生活を送るまでの流れが分かります。
大学生時代に赤軍派の思想へ傾倒
岡本容疑者は1947年12月7日に生まれ、鹿児島大学へ進学しました。
大学在学中は既存の政治党派に所属しないノンセクトの学生でしたが、反戦運動などに参加していたとされています。
その後、兄が所属していた赤軍派の思想に共鳴し、武装闘争を目指すグループに加わりました。
1972年にレバノンへ渡航
1972年2月ごろ、岡本容疑者はグループ関係者の手引きによってレバノンへ渡りました。
現地ではパレスチナ解放人民戦線などから、武器の扱いや軍事行動に関する訓練を受けたとされています。
そして同年5月、仲間2人とともにイスラエルへ向かいました。
空港乱射事件で逮捕され終身刑
1972年5月30日、岡本容疑者ら3人はイスラエルのロッド国際空港で自動小銃を乱射し、手りゅう弾を投げました。
仲間2人は現場で死亡しましたが、岡本容疑者は負傷しながらも生き残り、イスラエル当局に逮捕されています。
その後、軍事裁判で有罪となり、終身刑を言い渡されました。
1985年に捕虜交換で釈放
岡本容疑者は終身刑を言い渡されていましたが、1985年にイスラエルとパレスチナ武装組織の捕虜交換で釈放されました。
裁判で無罪になったわけでも、刑期を満了したわけでもありません。
拘束されていたイスラエル兵と多数の収監者を交換する政治的な交渉により、約13年間で収監を終えることになりました。
釈放後は中東に残り、日本赤軍のメンバーと合流したとされています。
1997年にレバノンで逮捕
1997年2月、岡本容疑者は日本赤軍のメンバー4人とともにレバノンで一斉に逮捕されました。
偽造旅券の使用や不法滞在などを問われ、現地で約3年間服役しています。
2000年に刑期を終えると、ほかの4人はレバノンから国外退去となり、日本へ移送された後に逮捕されました。
しかし、岡本容疑者だけはレバノンから政治亡命を認められました。
テルアビブ空港乱射事件では何があった?
テルアビブ空港乱射事件とは、1972年5月30日にイスラエルのロッド国際空港で発生した無差別殺傷事件です。
ロッド国際空港は、現在のベン・グリオン国際空港にあたります。
岡本容疑者ら日本人3人は、ローマから航空機で空港に到着しました。
到着後、荷物の中から自動小銃や手りゅう弾を取り出し、空港ロビーにいた旅行者らに向けて攻撃を始めています。
国内の公的資料では24人が死亡し、76人が重軽傷を負ったとされています。
一方、海外の資料では死者を26人とする記録もあり、犠牲者数には資料による違いがあります。
いずれにしても、一般の旅行者ら約100人が死傷した極めて重大な事件でした。
なぜ日本人がパレスチナ組織の事件に参加した?
事件は、パレスチナ解放人民戦線と日本人の武装グループが連携して実行したものとされています。
当時の空港警備では、パレスチナ人による襲撃が強く警戒されていました。
そこで警戒されにくい日本人を実行役にすることで、武器を持ったまま空港内へ入り込んだとみられています。
事件を起こしたグループは、当時は赤軍派アラブ支部などと呼ばれていましたが、この事件をきっかけに世界から「Japanese Red Army」として知られるようになりました。
岡本公三がレバノンへ亡命した理由は?
岡本公三容疑者がレバノンへ政治亡命できた最大の理由は、レバノンやパレスチナ勢力の一部から、イスラエルに対する抵抗運動へ加わった人物と見なされていたためです。
日本では一般旅行者を無差別に殺傷した事件の容疑者として扱われていました。
一方、レバノンやパレスチナ勢力の一部では、パレスチナ問題に協力した人物として支持されていました。
岡本容疑者自身もレバノンでの裁判で、自らをアラブの抵抗運動に加わった兵士だと主張していたとされています。
こうした政治的な評価の違いを背景に、レバノン政府は2000年、岡本容疑者に政治亡命を認めました。
レバノンが政治亡命を認めた最初の人物だったとも報じられています。
日本政府は身柄の引き渡しを求め続けた
政治亡命が認められても、空港乱射事件をめぐる日本での容疑が消えたわけではありません。
日本政府は亡命決定について遺憾の意を示し、その後もレバノン政府に岡本容疑者の身柄引き渡しを求めました。
しかし、レバノン側は要求に応じず、岡本容疑者は死亡するまで現地で生活を続けています。
そのため、日本国内では2026年の死亡発表まで国際手配中の人物として扱われていました。
岡本公三の死去に対するSNSの反応
岡本公三容疑者の死亡が報じられると、SNSでは事件を知る世代を中心に驚きの声が広がりました。
特に多かったのは、岡本容疑者が亡命先で今まで生存していたことに驚いたという反応です。
また、子供の頃に「テルアビブ空港乱射事件」という名前を聞いた記憶があるという投稿も見られました。
一方で、レバノンやパレスチナ勢力の一部から英雄視されてきたことに対し、無差別攻撃で命を奪われた犠牲者を忘れてはいけないという厳しい意見も出ています。
国や立場によって岡本容疑者への評価が大きく異なることも、改めて注目されたようです。
まとめ
今回は、元日本赤軍・岡本公三容疑者の死因や経歴、テルアビブ空港乱射事件とレバノン亡命の理由についてまとめました。
- 岡本公三容疑者はテルアビブ空港乱射事件の実行犯
- 日本人実行犯3人のうち唯一生き残った
- イスラエルで終身刑となったが1985年に捕虜交換で釈放
- 2000年にレバノンから政治亡命を認められた
- 具体的な死因や病名は公表されていない
- 2026年7月23日にベイルートで78歳で死亡した
岡本容疑者は、日本では約100人を無差別に殺傷した事件の容疑者として国際手配されていました。
その一方で、中東の一部ではパレスチナ解放運動に協力した人物として扱われ、最後まで日本へ引き渡されることはありませんでした。
死亡によって逃亡生活は終わりましたが、事件で犠牲になった人々や、その後半世紀以上にわたって続いた国際的な対立まで消えるわけではありません。


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